善念寺本堂の欄間

善念寺について

善念寺の歴史と概要
History of Zennenji

 善念寺は文禄二年(1593年)の創建以来、那須郡烏山の地にその法灯を護持してきた古刹である。

 開基の良信住関上人は佐竹氏の出で、玉造伊勢の守の三男として生まれ、後に名超派大沢円通寺良定袋中上人に指南を受けた。

 本尊は阿弥陀如来像で、他に二十五菩薩や善導大師像、法然上人像を祀っている。

 境内には、子育て地蔵堂、常盤潭北(渡辺潭北)の墓や「放下僧」ゆかりの牧野家墓(牧野山三学院歴代墓地)などがある。

善念寺本堂

寺院名 華渓山 深諦院 善念寺
宗 派 浄土宗
総本山 京都府 知恩院
所在地 〒321-0628 栃木県那須烏山市金井1-5-11
TEL/FAX 0287-82-2515 / 0287-83-2790
創 建 文禄二年(1593年)
開基 良信住関上人


善念寺ゆかりの人物と物語

 潭北は、延宝5年(1677年)烏山町の渡辺家に生まれ、名は貞尚、字は堯氏、号を潭北または百華と称した。生家は代々名字帯刀を許された郷宿と称する公用旅宿であった。

 潭北と同年に生まれた与謝蕪村の師で竹馬の友の俳人の早野巴人は、早くから伯父の江戸日本橋の唐木屋重兵衛を頼って食客となり、生来好きな俳諧に打ち込み、蕉門随一の榎本其角、服部嵐雪の教えを受けていた。巴人の影響で江戸遊学への志をかきたてられた潭北は、早くから江戸に出て医学を学び、その傍ら巴人と交わりを深め、巴人の手引きで当時江戸俳壇の有名な宗匠のところに出入りするようになり、また其角の弟子となり俳諧を修め、「汐こし」「後の今日」「反古さらし」「としのみどり」などを残した。

 潭北は江戸匠群の一人に数えられ、沾州、貞佐など、当時有名だった点者と同列に扱われ、一流の宗匠に格付けられていた。

 潭北は、俳諧のかたわら早くから庶民教育の必要を解し常・総・野の諸州を巡廻して、多くの人々に道を説き、村老を集めて郷村団結の必要を教えた。それらの講話の積んで篇をなしたものに「民家分量記」「野総茗話」(民家童蒙解)がある。

 潭北が俳人匠師として諸国を遊歴して庶民と交わり行く先々で行った講説は、農民生活の事実に求め、身近な農村社会の現実に即した処世訓を展開した。潭北は教化活動に専念し日本庶民教育史上に多大なる功績を残した人物である。(善念寺渡辺家墓地)

常盤潭北

 放下僧は善念寺檀徒牧野家の物語である。昔からあだ討ち物語は武士の鑑として、放下僧、曾我物語、望月の三曲が謡曲や能で演じられてきた。

 放下僧の概略は、南那須町森田の住人牧野左衛門尉勝重は群馬県伊香保温泉に入浴中に、今の神奈川県から来ていた利根大膳信俊と遊女のことで争いを起こしてしまった。喧嘩は一旦は収まったが、このことに根を持った大膳は、どうにも気持ちが晴れず、牧野左衛門をだまし討ちにしようと計略を練った。彼は芝垣の陰に隠れて勝重をねらった。そこへ出てきた勝重に矢を放つと、狙いたがわず勝重の胸を射抜いたので彼は即死した。

 勝重には、二人の子供がいた。兄は次郎丸といい、幼いうちに芦野家に養子に出て嫡子となっていた。そこで弟の小次郎は兄を誘い放下僧に扮装して、諸国を遍歴した後、終に今の横浜市六浦の瀬戸神社でめでたく本懐をとげ、那須に帰り、領主那須五郎之隆の前に出て、事の次第を申し上げると之隆大いに喜び、褒美として烏山善念寺西裏に永楽百貫の土地を与えたので、兄弟は愛宕下に館を構え、兄は禅僧として修行し、弟は武士となった。

 この土地に、天正18年(1590年)天台宗牧野山、三学院、大聖寺が建立されたが、明治8年3月に廃寺となり、善念寺に合併して現在に至っている。牧野山三学院歴代住職の墓も善念寺に残っている。

放下僧の牧野家


善念寺の境内の様子

観音様

2006.6.4建立の善念寺の観音さまです。
皆さんお参りして下さいね。

本堂内の様子

本堂内は、本尊阿弥陀如来を中心に二十五菩薩や善導大師、法然上人、四天王などがまつられ、気品が漂っています。

参道横の六地蔵

参道横の六地蔵さんです。

地蔵堂

子育て安産のお地蔵さんのお堂です。

新下野三十三観音

新下野三十三霊場の聖観音像です。

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